鳥羽市観光協会

〒517-0022 
三重県鳥羽市大明東町1-7
TEL 0599-25-3019
FAX 0599-25-6358

サイトトップ » イベントトップページ »第97回駆逐艦春雨殉難供養祭

第97回駆逐艦春雨殉難供養祭

    
相差の菅崎園地(すげざきえんち)に、『春雨殉難記念碑』と書かれた碑がある。ふだんは太平洋や的矢湾を望めるゆったりとした展望台であるが、はるか昔、ここで決死の救助劇が行われた。

≪駆逐艦春雨≫
駆逐艦春雨(排水量381t)は、1904年日露戦争に従軍し、旅順沖でロシアの駆逐艦と交戦後に、触雷し、船尾部分を喪失。修理後、日本海海戦に参加。僚艦「磯波」「綾瀬」と共に1911年(明治44年)11月23日、横須賀軍港を佐世保軍港へと出帆した。同日夜間に嵐に遭遇、避難のため的矢湾に向ったが、24日午前0時菅崎付近に座礁し、司令大瀧道助中佐、艦長児玉兼三郎大尉を含め乗組員64名中44名が亡くなる大惨事になった。僚艦は沖合いで嵐をしのぎ、翌朝、岸近くに目にしたものは春雨の煙突4本のみと記録は伝えている。

≪遭難≫
地元で春雨遭難の第一報を入れた殊勲者は、早起きの小崎喜蔵であった。嵐の後浜に打ち上げられる海藻などの漂着物を探しに行ったところ、半裸の青年を発見したという。まだ、息をしており、担いで自宅まで運んだ。妻に介抱を頼むと、すぐ、役場まで走り、青年会を中心に救助隊が編成された。長岡村相差と安乗村の村民が嵐の中、総出で救出にあたり、油まみれの海に飛び込み、生存者の救出に活躍した。海から挙げた瀕死者を女性が交替で体温で暖め蘇生させる、などの必死の努力がなされた。

≪供養祭≫
明治44年11月24日に座礁し、沈没した「駆逐艦春雨(くちくかんはるさめ)」。死者44人という大惨事で、その救助活動には地元の青年団や漁師、海女たちが多数参加したといわれている。その殉難者の慰霊とともに、相差の人々の勇気ある行動を後世にも伝えるべく、毎年供養祭が行われている。当日は自衛隊関係者他、相差町内会関係者が集まり、供養祭がしめやかに行われる。また、相差町民による「春雨艦遭難和讃」と呼ばれるご詠歌が歌われる。これは、日赤病院に療養していた小倉兵曹長、米沢一等機関兵らが友の死を悼み悲しみの涙で綴った詞である。

≪その後≫
その後殉職した乗組員の霊を供養するため記念碑が建てられ、眺望のよい記念碑公園(菅崎公園)として整備されている。碑の文面は慰霊碑ではなく殉難記念碑となっており、殉難者の慰霊と救助に当たった村人の献身的な努力を称えるという2つの意味を持っている。碑には昭和12年12月24日建立と刻されており、碑文は当時の海軍大臣米内光政大将の揮毫によるものである。今尚、菅崎沖に眠る44柱の英霊は明治、大正、昭和、平成と時を越え、ただ、ひっそりと、村人に慰められ、見守られている。展望台に設置された「とことわの鐘」は自然への畏敬の念と慰霊の心、世界平和をとこしえに伝えて行きたいとの願いを込めた癒しの鐘である。この菅崎園地では今日も誰かの願いが鳴り響いている。
日時 第97回駆逐艦春雨殉難供養祭
2008年11月24日(月祝)